さて、言語は考え方に影響を与えるのか? 著者が研究した範囲では、答えは「与える」のだそう。従って、違う言語を使う人は考え方も違い、新しい言葉を習得すると考え方が変わり、多言語を話す人は違う言葉を話すときに、考え方も違ってくるということになります。
それを裏付けるもっとも簡単な例として、動詞の持つ性質があります。例えば、動詞は、言語によって時制があったり、性別があったり、その動作の背景まで含んでいたりします。それによって話者が、話す際、どのような情報が求められるかが変わってきます。
また少し驚くような例として、アボリジニの一族の絶対的方位感覚があります。多くの人は空間を定義するときには、話者または聞き手から見て相対的に定義しますが、この一族は絶対的な方位で定義します。例えば、「あなたの南東方向の足にアリがいる」とか。著者の研究に拠ると、彼らの方位感覚は言葉によって強制的に身についたものだということです。ちなみに、彼らに「写真を時系列に並べる」ということを指示してみたところ、東から西へ並べたのだそうです (私たち日本人は、一般的に左から右に並べますよね)。
これが言葉自体の違いで生まれるのか、それとも単に文化的違いだけから来るものなのか? これについては、新しい言葉を学ぶことによって考え方が変わるということが見られたため、言葉が影響を及ぼしていると言えるのだそうです。
研究に拠れば、空間・時間・色・物・物事の分析・原因の究明・数の認識・物体の認識・認知・感情・他人の気持ちの理解・リスクを取るべきかの決断・仕事や配偶者選びも、言葉の影響を受けていることが分かるそうです。
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日本人の文化は諸外国の文化に比べて、ハイコンテクストな文化とされているのも、文法上の性質から説明がつくのではと思いました。
まず、日本語は文法的に曖昧さが許されている言語だと思います。日本語では好きな情報を好きなだけ文章に入れられます。日本語では「私が食べた」「ハンバーガーを食べた」「きのう食べた」「東京で食べた」「お箸で食べた」のどれもが許されるので、5W1H (誰が・いつ・何を・どこで・どうして・どうやって) について、話者が触れたい情報だけ触れることができます。英語では少なくとも、「誰が」については、それの文章中での役割が少ないとしても触れる必要がありますし、動詞によっては「何を」も必要です。
これは逆に考えると、日本語では、意識的か無意識的かは問わず、隠せる情報をいくらでも隠すことができます。とすれば、日本語が「言わなくて良いことは言わない」という性質を帯びているのも納得がいくと思います。
ちなみに、5W1H: who(whom), what, when, where, why, how のうち、はじめの2つは文法上省略不可で、後の4つは副詞で文法上省略可能です。ということは英語でも、when, where, why, how は随意なのですね。
話が逸れつつありますが...
言葉(表現)と考え方との関係や、言語と考え方との関係はとても興味深いです。
言葉の一番の役割は、コミュニケーション、すなわち情報を人対人でやりとりすることです。そこでやりとりする情報は、伝達者が持っているもの、すなわち伝達者が認知していることとなります。とすると、言葉は、人が物事をどう認知するかに大きく依存するはずです。言葉を手がかりとして、認知について考えることができるように思います。
# これは今回のエッセイには関係ないか...
また、言語が考え方に影響を及ぼすとは、「情報をアウトプットする際には一定の様式である文法に従って開示することが求められるため、相対的に重要でない情報についても文法制約上、触れる必要がある場合がある。そのため、重要でない情報も話者が意識する必要が生まれ、考え方が影響を受ける。」といった感じだと思うのですが、どういった文法制約がどういう考えを生むのかはとても興味深いです。